33歳からの人生やり直し

月収80万→5万の音楽クリエイターから33歳でIT業界へ転生したとある男の回想録。

仕事紹介だけじゃなく、自己研鑽でもお世話になった派遣会社とは、、、

この派遣時代、身分こそ不安定だったが、学習意欲が高かったので、勉強会にも活発に参加していた。

特に良く利用していたのが派遣元のパソナテックの勉強会だった。

レスポンシブレイアウト入門、トーン&マナー入門といったデザイン系から、JavaScript入門,Androidアプリ制作入門といった技術系、異色なものだと数学入門など、さまざまな分野の勉強会が開催されており、内容の質が高かったので、就業後によく丸の内のパソナ本社まで、通ったものである。

特に2012/4に行われた、「パソナテック就業中スタッフ限定HTML5レーニング」という勉強会がとにかく有用だった。

1日目がcss、2日目がCanvas、3日目がSVGについてハンズオンで講義を受ける事ができる講習会だった。

特に衝撃を受けたのが三角関数を使ったアニメーションの動かし方だった。

というのも数学の知識を使ってアニメーションを動かすというのは独学では気付けないポイントだったから。

20年以上前、習った三角関数というのはこういう風に活用するんだ!と、納得出来る瞬間だった。

この頃僕はネットゲーム運営会社に紹介予定派遣で就労していたが、その現場でも得意げに三角関数を使った自然なアニメーションを実装した事を、6年経った今も鮮明に記憶している。

このようにパソナテックには、お仕事の紹介のみならず、勉強会でも大変お世話になった。

IT業界以外の業種からIT技術者を目指して心機一転頑張りたい!という人は、是非ともパソナテックの扉を叩く事をお薦めしたい。

門戸を開いて、あなたを迎え入れてくれることだろう。

 

また派遣に逆戻り。実り多き半年。そして、結婚。

ウェブ制作会社で正社員になったのもつかの間、不当解雇によりまたまた不安定な身分に逆戻り。

正社員になり、その年の年末に結婚が決まり、1月からパートナーと一緒に住み始めた矢先の出来事だった。

今思い出しても、非常に困った事になった、、という苦い思いが胸から湧き上がってくる。

この時の苦しさを思い出せば、今の境遇なんて本当に天国じゃないか。会社の愚痴など言ってる場合ではなく、必死で業務に邁進し、どこでも通用するポータブルスキルを身につけて行くべきなのだ。そんな風にも思う。

さて、仕事の話に戻ろう。

2010/3に不当解雇される事が決まってからどうしたか?

就職活動はもちろんした。

しかしやはり、箸にも棒にもかからない。

そんな中、一社だけ、面接を突破し、就業することになりかけた会社がある。

その会社は、西日暮里の昔の学校の校舎を借りてオフィスにしているような、駆け出しのITベンチャーだった。

五月一日に入社したが、ゴールデンウィークの間に、PHPを覚えなさい、そうすれば、客先常駐のPGとして雇ってあげますよ、という話だった。

メチャクチャな話だった。

結論から言うと、ここから逃げた。

こんなことをしたのは後にも先にもここだけだと思うが、期限を設けられた課題があってその提出日に何も出来ておらず、体調不良という理由で会社を欠席したのだ。

結局、その会社とはそこでサヨナラ、となった。

 

そしてまもなくまたもや、派遣で働くことになる。

三軒茶屋にある、とあるIT企業だ。

世の中、非正規雇用の需要であふれているみたいだ。

少なくとも、当時の僕の肌感覚では、そうだ。

正規雇用への道は、ほとんど閉ざされているように感じた。

しかし、非正規雇用は逆に、引く手あまただった。

そして僕はというと、何しろ結婚が決まり、子供も生まれてくるという状況なわけで、正規だろうが非正規だろうが、働くしかなかったのだ。

ここではJavaScriptを夢中で学んだことが一番印象に残っている。

サイ本もここの近くの書店で買った。

他にもHTMLからiPhone/Androidアプリを作れるPhoneGapに関する本など、いろいろと吸収したものだ。

派遣だったが、学びは多かった。

仕事をとってきてリリースまで切り盛りしていた営業の女の人を見て、営業の仕事も素敵だな、と初めて思った。

営業職だった父親から営業だけはやるなと強く否定されていたので、鼻から志す気はなかったのだが、営業という仕事はどこからどう見ても魅力的だ。

いつか一度でいいのでやってみたい仕事だ。そして、受注を手にしたい。

また、この現場では、WordPressも一人で全部、動的にテンプレートコーディングして、サーバーサイドのエンジニアさんに舌を巻かれたことが印象に残っている。

あれは自信になったな。

スマホ向けにJSを使ったUIのコーディングなんかも面白かったな。ここでは本当に何でも手伝った。

この現場も任期満了で、契約打ち切りになったが、理由としては、現場担当者さんに「正社員にしてほしいのですが」と相談したことで、向こうはその気が全く無く、敬遠されたのではないか?と個人的には思っている。

果たしてこの三茶の現場も、半年で終了となった。

この現場で働いているときに私は結婚をした。

つまり派遣社員の時に結婚したということになる。それもまた人生である。

そして次もまた新橋にある別の現場に派遣として出向くのである。

ウェブ制作会社に、念願の正社員採用。

半年間、派遣で力をつけさせてもらった。

学びと反省があった。

そして、働く楽しさがあった。

これが労働だと思った。 

結局、僕のサウンドクリエイター時代の音楽の作り方は、趣味だったんだな、と思った。

クライアントの方を向いていない。自分を満足させるために作曲をしていたんだと思う。そういうやり方しか知らなかったのだから、仕方がない。

熱心にウェブのスキルを身につける、密度の濃い、ウェブクリエイターとして初めての半年間を過ごした後、念願の正社員として、採用してくれるという会社が現れた。

正確には、半年間の契約社員としての試用期間後、正社員登用される、という契約である。

退職金やボーナスはない。年俸制

それでも、終身雇用が保障された、正社員という響きに、僕はたまらない魅力を感じた。

今まで一度も正社員として働いたことがなかった自分からすると、喉から手が出るくらい、勝ち取りたい身分だった。

肩書きは、ウェブデザイナー

かなり勉強を重んじる会社で、いろいろな勉強会や、課題が出た。

まずは第1課題として、デザイナー部門長から、Photoshopで、参考になるサイトの「模写」をするという課題が出た。

さまざまなテクニックを駆使して、お手本サイトと全く同じ質感になるように、デザインを作っていく。しかし、なかなか全く同じにはならない。

この課題は、Photoshop力の向上に、大きく役立った。

技術面では、まず全社員対象に、社長自らが講師となり、TCP/IPの勉強会。

知識が定着しているかどうかの確認課題まであった。

この会社では僕は、cssコーディング、Smartyテンプレートのコーディング、と言ったところを担当していた。サーバーサイドは、まだまだちんぷんかんぷんであった。デザイナーとしては、地図くらいしか担当させて貰えなかった。ここのデザイン長は、本当に上手な人だったので、僕のレベルではとても使い物にはならなかったのだろう。しかし、cssSmartyは現在に至るまで、使用している技術なので、ここでみっちりと身につけたことは、その後のフロントエンド開発の礎となっている。

2009年の4月にこの会社の社員になり、初めての年が明けたころ、FindJobの自己PRを再編集していることが社長の逆鱗に触れ、辞めてくれないか、と言われた。

そんな理由で辞めさせる事なんて出来るのか?と理不尽な気持ちで一杯になったが、僕は渋々、了承した。

そんな訳で、初めての正社員としての生活は、1年という短い期間で、幕を閉じた。 

Webクリエイターになった日。

音楽が好きだった。

そして自分は音楽で身を立てるしかないと思っていた。 

音楽に関する仕事なら何でもやった。

夜のライブハウスでの演奏。

新宿歌舞伎町、柏、横浜、横須賀、、関東一円、ライブハウスのあるところはどこにでも飛んでいった。

軽自動車で鍵盤を運び、演奏し、演奏料を頂く。

友人のつてでもらった、携帯電話向けのサウンド制作。これも力を出し切ってやった。au by KDDIの一時期のガラケーには、僕の作った音楽が必ずプリセットとして入っていたはずだ。

音楽サークルの先輩からもらった、著作権フリーBGM作成の仕事。毎月楽しみつつも、しっかりと作った。

芸人さんのバンドの手伝いとしてのキーボーディスト。テレビに出ているような非常に多くの有名人と共演できたのは貴重な経験だ。

携帯電話のストレージ容量が増え、メロディを鳴らす着メロから実際のCDのオーディオデータを鳴らす着うたに世の中が急速にシフトした頃、あっという間に、ぱったりと着メロ制作の仕事は減った。

着メロに収入の75%を依存していた僕は困った。それを補う仕事など思いもつかない。

音楽以外でもいい、むしろ、音楽以外の方がいい。もうMIDIで一人アレンジを作り続ける事にも、ライブハウスにヘルプ出演し続ける事にも、確定申告を一人でやるのも、あまりにしんどく、限界を感じていた。

僕は孤独で、音楽に対する情熱も失い、それをブレイクスルーする知恵も持ち合わせていなかった。しかしそれは、自分が作り出した環境。誰も責めるわけにはいかなかった。

音楽以外で、夢中になったもので、仕事になりやすそうなもの?ひとつだけあった。それがウェブ制作だ。

私は大学時代、自分の作品を発表するホームページ作りに熱中した。

デモテープを手渡ししなくても、ホームページを作れば、だれにでも聴いてもらえる。なんと素晴らしいことだろう。

僕は夢中でhtml,css,Photoshop,音声エンコーディングRealPlayer,SoundVQ)の方法とそのプレイヤーの埋め込み方法について学んだ。それが1997年のこと。

その経験が忘れがたく、Webクリエイターとして生きていくことを決めた。

2008年10月。33歳、未経験。

そのスペックで、正社員ではなかなか採ってくれない。予想以上に厳しかった。

正社員が難しいならと派遣に登録したところ、いともあっけなく仕事にありつくことができた。

企業はそんなにも、正規雇用をしたくないのだろうか?と思ったものである。

いずれにせよ、キャリアチェンジして初めての現場は某通信会社のイントラネット保守運用の仕事であった。

この本片手に、慣れないcssと格闘した。

何しろ、cssはほとんど書いたことがなかったのに「できます」と見栄を切ってしまったのだ。

でも、Web制作の仕事に就くことができて、本当にうれしかったので、全力でスキル習得に取り組んだ。

htmlやcssを書くのは、楽しかった。

支給されたPCには、Photoshopがインストールされていたので、これを使うのも楽しかった。

cssPhotoshopについて、いろいろな本を買った。 

また現場のリーダーに教えてもらったJavaScriptの本も、みっちりと一冊しっかりと問題を解くところまでやった。

この本は今も手元にある。

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ボロボロだが、当時勉強した証として、なかなか捨てられない。

この時この本で習得したif文やfor文、while文は、その後様々な言語を習得する際の基礎となった。

入口がJavaScriptというのは若干特殊なのかもしれないが、私はブラウザとテキストエディタさえあればできる、一番手軽なコンピュータープログラミングの入り口として十分おすすめできるものと考えている。

私は当時のリーダーが使っていたから、この本で学んだが、この本でよかったと思う。

この現場は半年契約の満了で終了になった。

現場自体は続いていたのだが、契約打ち切りになったのは、やたらと面倒な日報の記入について、現場の監督者と揉めたためである。

今思うと、業務の簡素化への提案として、正しい伝え方が出来ていなかった。しかしそのころの僕は社会人としての折衝スキルなんて持ち合わせていなかったのだ。

あるいは新卒の年齢なら許されたのかもしれないが、私はもう33歳だったのだ。

この経験で、社会人として急ピッチで成長する必要があることを悟った。

真っ当な社会人生活の10年分をキャッチアップしなければならない。

しかし、そんなことは、できるのだろうか。

僕は焦っていた。

この後は、初めての正社員となった、ウェブ制作会社に、入社することになる。