自分はいったい、何屋なのか?
今の自分の立場は、技術部門に所属こそすれど、法務、営業、経理と密にコミュニケーションを取りながら、さまざまな事をやっているIT何でも屋だ。
今日はふととなりの上司に、漏らしてしまった。
「自分はいったい、何屋なんでしようか?」と。
今日は、GitとLinuxのコマンドを数個叩いた。
コードは書いていない。
法廷で係争中の事業譲渡先になかなか発火性の高いメールを打った。
協力会社のエンジニアさんに認識合わせのメールを打った。
まぁ最近はそんなのばっかりだ。
ハード+ラズパイの納品業務なんてのもやっていたし。
iOSのアプリビルドとか、作業系もやった。
人が抜けて、決めがなくなったところに、決めを作るような事もやった。
こういう仕事は結構しんどい、ああすればこうなるし、こうすればああなる、じゃあ結局どうする?みたいなのをじゃあこうしよう、なぜならこれこれこういう理由でこれが最適解だから。と決めなければならないから。
色々と迷いも多いんだけど、ワクワクできる事を探したいですね。
今の職場で約2年半、仕事を一通り覚えて、何となく改善を考える余裕も出てきて、今って結構、チャンスなんだと思う。
逆に言うと、この状況で、自ら動けないようだったら、ここにいる意味はもうないんだと思う。
ちょっと今は、試練の時だなと思う。
転職を考えた時、一番不安なところは、規則正しい労働と休暇のサイクルで、やっと定まった精神の在り方が多かれ少なかれ、変わってしまうのではないか、という点である。
こんな事が一番不安だなんて、我ながらなかなか興味深いと思う。自分とはこういう人間である、という確固とした強いパーソナリティを作り上げたいという思いが、割と他の人よりも強いのかもしれない。
しかし我々は、真空の中に生きているわけではない。刻々と変化する社会に生きる俗物たる我々にとって、確固アイデンティティを持ち、的確なセルフブランディングをし、パーソナリティを確立することは、曲芸に近い難しさが伴う。もはや、出家をする事でしか、そんな事不可能なのではないか、とさえ思える。しかし、自己の確立を諦めることは死に値するとも思う。孔子は言った。四十にして惑わず。しかし四十を過ぎた僕はその境地には程遠い。自分とは何者なのかを探す旅は死ぬまで続いていくのだろう。
だいぶとりとめのない話になってしまったが、この文章を、明日を考えるヒントとして、ここに残しておく事にする。つまりこれは再利用されるパーツとして自分の中では定義している。