33歳からの人生やり直し

月収80万→5万の音楽クリエイターから33歳でIT業界へ転生したとある男の回想録。

世の中をサーバイブする為の武器としてのITスキル

これらの知識は現代社会で物事を考えるための基本となるスキルと言えるので、しのごの言わず覚えなければならない。

毎日何かしらの情報をキャッチし続けなければならない。

ひとつひとつ簡単に見ていこう。

エクセル。

統計を取り、分析し、仮説を立て、実証する。

そのための最強の武器。

やっている人にとってはごく自然にやっていることだと思うが、これができれば、それだけで仕事になる。

PHP+MySQL

結局RubyPythonだと言われながらもこの組み合わせがウェブサービスの基本である。これについても、ITベンダーに半年もいればごく自然に覚えているようなスキルではあるが、この操作がしっかりできれば、それだけで、仕事ができる。

TCP/IP

インターネットは、IPアドレスサブネットマスクによって通信先を選択している仕組み上、TCP/IPの理解は必須である。これについては、書籍などまとまった情報で全体像を理解する必要がある。

iOS

アンドロイドが大分シェアを伸ばしてきているけどやはりiOSの理解なしにはアプリの理解は有り得ない。証明書周りの理解、Objectve-CまたはSwiftの文法、Viewの作成方法など、浅くでも把握しておく事。それがきっと、アプリを使って実現したい事について考えるのに、役立つ。

自分はいったい、何屋なのか?

今の自分の立場は、技術部門に所属こそすれど、法務、営業、経理と密にコミュニケーションを取りながら、さまざまな事をやっているIT何でも屋だ。

今日はふととなりの上司に、漏らしてしまった。

「自分はいったい、何屋なんでしようか?」と。

今日は、GitとLinuxのコマンドを数個叩いた。

コードは書いていない。

法廷で係争中の事業譲渡先になかなか発火性の高いメールを打った。

協力会社のエンジニアさんに認識合わせのメールを打った。

まぁ最近はそんなのばっかりだ。

ハード+ラズパイの納品業務なんてのもやっていたし。

iOSのアプリビルドとか、作業系もやった。

人が抜けて、決めがなくなったところに、決めを作るような事もやった。

こういう仕事は結構しんどい、ああすればこうなるし、こうすればああなる、じゃあ結局どうする?みたいなのをじゃあこうしよう、なぜならこれこれこういう理由でこれが最適解だから。と決めなければならないから。

色々と迷いも多いんだけど、ワクワクできる事を探したいですね。

今の職場で約2年半、仕事を一通り覚えて、何となく改善を考える余裕も出てきて、今って結構、チャンスなんだと思う。

逆に言うと、この状況で、自ら動けないようだったら、ここにいる意味はもうないんだと思う。

ちょっと今は、試練の時だなと思う。

転職を考えた時、一番不安なところは、規則正しい労働と休暇のサイクルで、やっと定まった精神の在り方が多かれ少なかれ、変わってしまうのではないか、という点である。

こんな事が一番不安だなんて、我ながらなかなか興味深いと思う。自分とはこういう人間である、という確固とした強いパーソナリティを作り上げたいという思いが、割と他の人よりも強いのかもしれない。

しかし我々は、真空の中に生きているわけではない。刻々と変化する社会に生きる俗物たる我々にとって、確固アイデンティティを持ち、的確なセルフブランディングをし、パーソナリティを確立することは、曲芸に近い難しさが伴う。もはや、出家をする事でしか、そんな事不可能なのではないか、とさえ思える。しかし、自己の確立を諦めることは死に値するとも思う。孔子は言った。四十にして惑わず。しかし四十を過ぎた僕はその境地には程遠い。自分とは何者なのかを探す旅は死ぬまで続いていくのだろう。

だいぶとりとめのない話になってしまったが、この文章を、明日を考えるヒントとして、ここに残しておく事にする。つまりこれは再利用されるパーツとして自分の中では定義している。

やっとIT技術者になれたのに、異業種への浮気心?

異業種に転職するとしたら?

このお題を掲げた背景としては、現職で2年半くらい勤務する中で、興味が湧いて来た業界がいくつかある為だ。

ひとつは、地域活性化に貢献できるITによるローカル経済活性化。

これならECの経験も活かせるし、地元への愛を貢献という形に変えていける。

今やれているのは通勤時の道端でのゴミ拾いくらいですが、もっと地元を良くしていけると思う。

自分の地元では野菜を作っている人が多いので、アマチュア農家の農産物を流通・分配する仕組みとか。

習い事も、地域でもっと自由に教え合うような仕組みができれば楽しい。

人間大人になれば誰しもそれぞれひとつくらい、誰かに教えられるくらいまでレベルアップした事があるはず。

藤原和博さんの本によると、ピアノでも、プログラミングでも何でも、何かをマスターするのに必要な時間は10,000時間らしいです。

そのノウハウをお互い教え合えばお互いを高め合えるし、場合によってはその子の一生を左右するような物事との出会いがあると思う。そういう場をローカルに提供できれば嬉しい。

もう一つ、興味のある業界は、健康業界だな。

健康の大事さ、最近痛感してるから。

と、こんな浮気心がありつつも、年齢的パパという立場的な問題もクリアするにはなかなか壁は高いので、IT業界をもうちょっと極めていく方向で落ち着きそうな気もする。

でも、人生何が起きるかわからないので、偶然を楽しみつつ、フットワークは軽く、いざという時に備えスキルを磨いておこう。

それさえできれば、チャンスが来た時、フルコミットするのみ。

せいぜいこれからも、頑張ります。

EC,POSのパッケージベンダーへ入社、現在に至る。

四月の一ヶ月、丸々休みだった。

主にスポーツジムに行き、体力をつけていた。

ゴールデンウィーク中の5月1日、新しい職場に初出勤。ここに、現在も勤めている。

ECやPOSを販売しているパッケージベンダーである。途中、IOTも手掛けたが、現在は小売のIT化に特化したビジネス展開をしている。

入社してからずっと保守チームにアサインされている。

2年半やってきて、保守業務の心得は以下の通りである。

商用環境の稼働を止めない事がまず大事。

その上で、システムを使って行く中でのお客様の要望を上手く実現可能な枠組みに落とし込み、見積もりに持っていく。これで新しい利益が生まれる。その営みが基本。

保守はシステムに関して広く浅い知識が求められるポジションである。一つの技術を深く掘り下げる事より、浅く広く網羅する方が好きな人には向くと思う。

例えば、ドットインストールなどで新技術を触りだけ確認するのは好き、というタイプの人は、向いている。

ここまで、早足で音楽クリエイターからITエンジニアに転身するまでを語ってきた。

このブログは回顧録だ。

その性質上、現職について多くを語る事は意図に反するだろう。

音楽クリエイターとして先が見えなくなったのが33歳。そこから必死でもがきながら、ITエンジニアとしてなんとか今もやっている。

でも苦しみより、新しい事をやっている自分にワクワクする気持ちの方が大きかったと思う。

だからこそ人生のやり直しができた。

今、仕事人として見える景色はサウンドクリエイターの頃とは全く違っている。

ITは、産業、経済、アート、エンタメといった人々の生活のあらゆる局面で活用されている。

IT技術者として学んだ知識を、生活のあらゆる局面で応用し、生活や創作活動をより豊かに、便利にしていく事。これこそがIT技術者の究極のミッションだ。

そのためにはどういう考え方を引っ張り出してきて、適用し、実現させれば良いか?

それを考える力がついた事、これが一番の収穫だ。

前職以前の主に派遣時代の経験で、プロとしてのウェブサイトの作り方を習得した。

そして前職でゲームの作り方がわかった。

息子が考案したゲームのお絵描きを実際に動くゲームにして見せてあげる事ができるようになったのは、僕ら親子にとって、大きな財産だ。

これをきっかけに息子は数学や物理にも興味を持ってくれるかもしれない。

物理や数学がどのように世の中で使われるのか?といった学校で教わる事の意味を幼いうちから理解しているのといないのとでは、大違いだと思う。

また現職でレジやECサイトの作り方もわかった。

基幹連携の仕組み、各種サービスとの連携の仕組みもわかった。それをきっかけに産業、経済全般への興味が湧いてきたのは、自分の中で大きな変化だと思っている。

これらのことは、IT業界に入らなくては決して見る事の出来ない景色だった。

 

ふと思う事がある。

作曲家としてあのまま活動を続けていたら、今どうなっているのだろう?

おそらく世の中という景色の見え方がかなり低い標高からのまま非常に悩み多き日々を過ごしているのではないかと想像する。

なので今もタフに音楽活動を続けている人達には敬意を表す。

ちなみに昔の音楽仕事でご一緒していた人達が現在どうなっているかというと、かなり生活が苦しそうだった人が、ブレイクしてテレビやラジオ、出版で活躍していたり、僕の紹介した後任のキーボード奏者がが僕より上手くやっていたり、皆それなりに充実した月日を重ね、ステップアップをしているようだ。僕もあるいは、あのまま続けていたら、突然のブレイクスルーや、コツコツとしたステップアップで、食えていたのかも知れない。しかし今その道は、自らの手で、閉ざしてしまった。

しかしその時僕が置かれた状況を考えると、ある程度安定した収入を得られる仕事をすぐに始める必要があった。

派遣でフルタイム勤務しても、土日で音楽活動を続けようとも思っていたし、実際しばらくの間、BGM制作の仕事などは引き受けていた。

しかしその仕事も、今は休眠状態だ。

ひとつは詳しい事はわからないが会社が倒産してしまったとかで、発注は途絶えてしまった。

もう一つのライブの仕事?(一応ギャラは頂いていた)も、エンジニアの方の仕事の都合で代打を頼んだら、そちらがレギュラーになってしまった。

まぁ仕方がない。その後任は音楽一本でこれからも行くという覚悟がある奴だったから。

俺がバンドマスターだったとしてもそちらを選ぶ。

また住宅、自動車のローンを組むため、その審査に通過するには正社員で長く勤続している必要があった。

そんな風にいろいろな事情が重なりお互いなんとか糊口をしのいでいた音楽クラスタの仲間には悪いことをしたと思う。

これらの日々は青春時代のいい思い出として大事にしたいが、食えないのはやはり、どうしたって、苦い思い出だ。

今僕は、住宅も自動車もローン締結済の今となった。

稼げるフリーになるのも一つの手だと思って、飛び込む機会を伺っていたりする。

派遣の時お世話になったパソナに相談だけでもしてみようか。

今ある仕事に感謝しつつ、そんな自分戦略を企てながら、今日もまた、満員電車で都内へ毎日通勤している。

ゲーム運営会社への紹介予定派遣、正社員登用後のその後の仕事。

デザインチームでは、デザイナーさんと組んでゴルフゲームの販促用のミニゲームを作った。

使った技術はWordPressベースで、HTML5 canvas,Twitter API,など。

Twitter APIは、ツイッターの自分のフォロワーをボールにしてかっ飛ばす、〇〇メートル飛びました!というメッセージをツイート出来るようにする、というゲームなので、ログイン認証するAPI、フォロワー一覧を取得するAPI,メッセージをツイートするAPIを使った。

HTML5 Canvasは、フォロワーのプロフィール写真をボール型にくり抜くのに使った。

WordPressのテンプレートタグもあまり覚えてないが色々と調べて使った。

自己満足かもしれないが、なかなかの仕上がりのものが出来たと思う。

その仕事が認められ、次はリリース済みのUnityゲームの保守プロジェクトにアサインされた。

デザイナーさんも、Unityゲームのプロジェクトで、デザインやテクニカルアーティストのポジションに移っていったようだ。

私はnGUIでのUI制作を覚え、主にUI周りの実装を手伝った。

また、テクスチャ、シェーダー、マテリアル、コライダー、リジッドボディ、といった、3Dゲーム開発の基礎知識について勉強会で発表したりした。

こう思い返すと、このプロジェクトでも本当に沢山の事を学んだと思う。

その後、新規開発中のやはりUnityゲームのプロジェクトにアサインされる事に。

ガチャやオプション画面の組み込みを担当した。

私はここで通用するだけの技術は無かったようだ。あるいは相性の問題もあったのかもしれない。

散々、コードレビューで斧を投げられた挙句、この会社をドロップアウトすることになる。

理由は、スキル不足?

いや、結局の所、この会社では、自分の居場所を見つけられなかったんだと思う。

ゲーマーであることが必須の会社で、僕はその条件を満たしていなかった。それが最後まで尾を引いた。

僕はいわば肩たたきにあったため、在籍中に、おおっぴらに転職活動することが認められていた。

2月にふらっと足を運んだ転職フェアで、偶然立ち寄ったブースで、担当者さんと意気投合し、名刺を交換した。肩書きを見ると、取締役とある。まさか転職フェアに取締役が来ているなんて思いもしなかったので、驚いた。

僕はすぐに名刺のメールアドレスにお礼のメールを送った。

そして応募し、面接まで進むと、人事部長から、実は取締役の計らいで、合格は最初から決まっていたんですよ、と言われた。

なんと、一本釣りというやつだった。

有給消化してからジョインしたい旨を告げると、人事部長からは、俺は有給なんて取らずに即ここに来たと、少し小言を言われたが、実はすぐにジョインできない理由があった。それは、長男の小学校入学に合わせた、家を建てる計画があったこと。

住宅ローンを組む関係で、その審査が完了するまでは、元いた会社を離れる訳に行かなかったのである。

ゲーム運営会社に紹介予定派遣で就労、無事正社員へ。

ゲーム運営会社に就業する前に、3泊4日で、宮古島に家族で旅行に行った。

当時は念願のソーシャルゲームの現場での紹介予定派遣が決まったとあり、一安心だった。

とても良いタイミングで、旅行のチャンスがきたのだ。

僕は、この宮古島での四日間は、何という安らぎの時間だろうと思ったものだ。

心も体もリフレッシュして、いざ、現場へ。

大企業である前の現場から一転、ドがつくほどのベンチャーだ。

メンバーのレベルが高く、使われている技術、作っているもののレベルも高い。

目の前の仕事を必死でこなす毎日。

この現場で初めてアサインされたRuby on Railsブラウザゲームのプロジェクトは、旬な技術の塊だった。

私が関わっていたフロントエンドは、htmlがHamlcssがSass、JavaScriptは、CoffeeScript + backbone.jsである。

また、実はそれまで、git によるバージョン管理というものを経験してこなかった。

なので、最初に苦労したのは、実はgitだった。

また、仕事でMacを使ったのは実は初めてで、慣れないOSにもやはり、手こずった。

それでもまずはHaml+Sassのマークアップから業務を開始。

技術的に新鮮だったのはRubyの繰り返しや条件分岐を使ってマークアップスタイルシートの記述を効率化できることで、これは快感だった。

勉強会や読書会も、ちんぷんかんぷんながらも、出来る限り参加した。

勉強会はライトニングトーク、テーマを決めて発表など。

読書会は、ノンデザイナーズ・デザインブック、JavaScript:the Good Parts、リーダブルコードなどなど。割と有名な書籍が多かったと思う。

すごくギークな世界で、自分とは別世界の住人だなと思いつつも、この変化を受け入れる事は自分にとって大変刺激的だったし、この時期に学んだ事の大きさは計り知れない。

現場で働いて半年後、念願の正社員としての登用が決まる。

年収面で若干揉めたが、私の方が折れる形で、事態は収束。

想定年収から50万円もダウンなのだから痛かったけど、スキルが足りていなかったということなんだろうなと、今となっては思う。

その後も、Railsゲームの保守運用に携わったが、サービスインから一年くらいで、サービス終了という事になった。

ローンチ前は、ゴールデンウィーク返上で頑張っていた事を考えると、残念な気持ちでいっぱいだった。

確かサービスインの一ヶ月後くらいから、課金が始まって、あの頃は毎日売り上げを見るのが楽しかったのだが。

その次に開発に携わったのが、Unityのアクションゲーム。マップなどのウェブビューのUI部分をJavaScriptを使って実装したり、サーバーサイドの方もいじる事になった。サーバーサイドはPHPMySQLだった。

ここで初めてPHPオブジェクト指向を学ぶ機会があり、その概念を理解できた。

これは大きな収穫だった。

このように、このプロジェクトでもさまざまな学びの機会があったが、このゲームは陽の目を見る事なく、開発が中止される事になった。

みんなで飲みに行った時の悔しい気持ちは忘れられない。

この後、デザインチームにアサインされる事になる。

 

大手証券系SIer系列のウェブ制作会社で半年間、フロントエンドエンジニアとして就労。

この新橋の現場では、さまざまなサイトのコーディングを行った。

技術的には特に新しい事は身につけていない。

しかしながら、既存のJavaScriptのライブラリを使ったUIの実装、css3だけで実装したボタンなど、今まで覚えた事を定着させることができた。

この現場での大きな収穫は、スキル面というよりは、現場の社員さんでとても面白い人がいた事だ。

その人は、現場の社員としてフルタイムで勤務しつつ、空き時間を使って若者たちを集め、会社を作った。転職5年目、そちらの仕事が軌道に乗ってきたタイミングで、退職するという。この時期にこの現場にいられて、色々とお話を聞くことができたのは、とてもラッキーだったと思う。

その人とは、今もフェイスブックで繋がっている。社長として、とても上手く会社経営を取り仕切っているようで、飲食店舗運営のさまざまなソリューションを世に出していて、とても刺激を受ける。

ご本人は、そんな風に思っているなんて、多分想像すらしていないと思うけど。

おしなべてこの現場は、性格が穏やかな方が多かった。

最終日には、現場リーダーさんが、スタバのギフトカードをプレゼントしてくれた。

私の仕事が感謝されたようで、凄く嬉しかった。

また、本社が関西にあるため、関西弁の割合が高く、とても和やかな雰囲気だった。

総じて、現場の雰囲気としては凄く良かった。

良くも悪くも、安定している、ゆったりしている、危機感がない。

見る人が見たら、大企業病っぽいということになるんだろうけど、余裕があって、安定している事が、どれほど安心感を与えることか。

僕は大企業の魅力というのは、ここにこそあると思っている。

この現場での学びは、こんなところにもあった。

半年間の契約期間満了後、別の現場に行きたいため、契約を継続しない旨、派遣元に伝えた。

当時はそんな余韻に浸る余裕もなく、このあといよいよ、正社員への道筋となる、ゲーム運営会社にて、紹介予定派遣で働くことになる。